J読書会の記録

都内で月イチ開催の読書会やってます。

第7回読書会の記録

日程と題材

第7回の読書会は、2015年11月8日(日)に開催されました。出席者は3名でした。

丸山眞男「近世日本政治思想における「自然」と「作為」ー制度観の対立としてのー」(同『丸山眞男集 第2巻』(岩波書店、1996年)所収)を題材として、内容を踏まえての討議を行いました。

 

次回

次回の題材は、ルーデンドルフ『総力戦』(原書房、2015)です。

この度、新しい訳が出版される予定なので、この機会に取り上げたいと思います。

 

ルーデンドルフ 総力戦

ルーデンドルフ 総力戦

 

 

第6回読書会の記録

日程と題材

ご報告が遅れましたが、第6回の読書会は、2015年9月5日(土)に開催されました。出席者は3名でした。

ハーバーマス『公共性の構造転換』を題材に内容についての討議、題材を踏まえての討議を行いました。

 

次回からは丸山眞男集所収の論文を順次読む予定です。

 

第4回読書会の記録

日程と題材

第4回の読書会は、2015年6月27日(土)に開催されました。出席者は3名でした。

題材は、丸山眞男「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」

(同『丸山眞男集 第1巻』(岩波書店、1996年)所収)でした。

 

本文の構造*1

儒教の特質>

  • 「シナ帝国*2

   思想的展開が儒教内部でのみ行われた*3

  • 日本

   近世に入り、近世儒教朱子学としてその展開の歩みを始めた。

    理由:朱子学興隆の①客観的条件と②主観的条件の存在

       ① 客観的条件:近世封建社会の社会構成と儒教倫理の思想

                        構造との類型的な照応

       ② 主観的条件:儒教そのものの思想的革新*4

   元禄から享保にかけての経済的・社会的な転換期を背景として、儒教内部においてそれとは異質な思惟方法が発展していった*5

 

<日本における儒教(内部?)の展開>

   「朱子学においては、治国平天下は徳行に、 特行は更に窮理に還元せしめられた。こうした「合理主義」の解体によって政治は漸次個人道徳より独自化し、徂徠学に至って儒教は完全に政治化された。しかるに規範の政治的なるものへの昇華は他面、人間内面性の解放となり、その自由な展開への道をひらいた。国学はまさにこの後を承けて、一切の儒教的作為の否定者として登場し、徂徠学において私的領域としていわば消極的な自由を享受していた内面的心情そのものに己が本来の栖家を見出したのである。かくて国学は徂徠学の公的な側面を全く排しつつ、その私的、非政治的なそれを概ね継承することとなった*6。」

 

 簡単に図式化すると、次のような流れとして理解できる。

 

 朱子学 ⇄ 徂徠学 →(継受and転換*7)→宣長学(国学*8)→・・・→ 近代

 

 ※ 以下では、この図式の項目ごとに説明していく。

 

朱子学の特質*9

  • 経書言語学的研究に終始する訓詁学を斥けて道統の伝を高唱し、四書によって孔・孟・曾・子の根本精神を把握する義理の学であろうとする*10
  • 従来儒教の思想的弱点であった理論性の欠如を補うべく、宇宙と人間を貫通する形而上学を樹立した*11

 ※ これら宇宙論と人性論が密接に結びついた結果、人々の日常起居の修養法から世界実体論に及ぶ空前絶後というべき大規模な理論体系となっていった。

 

  〇 朱子学の根本理念の「理」について

  • 「理」:物理であると同時に道理であり、自然である同時に当然でもある。

              →自然法則は道徳規範と従属的な形で連続している*12

 

<徂徠学の特質>

  • 道徳規範を自然道徳の上位に位置づけ、朱子学の政治化を行う。
  • 「公」と「私」を区別する。

 

宣長学(国学)の特質*14

 〇 徂徠学との関係

     「継受」: 3つの点において「継受」が見られる。

       ① 文献学的=実証的方法論*15

       ② 歴史的意識*16

       ③ 人間自然性の解放*17

  「転換」:2つの点において「転換」が見られる。

       ① 徂徠は「聖人」の存在を所与のものとしているのに対し、

                      「聖人」が存在するという根拠がないと指摘する。

       ② 宣長は徂徠の非合理性を喝破している。

 

 〇 徂徠学と国学との関係

 「国学は徂徠学のそれ自身を排他的な政治的原理に高めることによってではなく、その学問的方法における純粋性————からごごろの排除————を徹底的に貫きつつ、政治的部面においては、〔中略〕逆に一切のイデオロギーを包容して行く態度によってのみ新しい時代における生存権を保ちえた*18。」

 

議論の内容

  • 国学は、日本における近代の思想的基盤を準備したものといえるのではないか*19
  • 国学の学問的方法における純粋性と政治的部面における包容さこそが、近代日本の西洋の思想・技術の積極的な継受に際して、その思想的態度の基盤ともいうべきものを準備することとなったのではないか。

 

感想*20

 A:これまでの記載を見る限り、徂徠学に関する検討が少なかったように思われるかもしれない。もちろん、従来からの朱子学研究を批判し、国学の発展を歴史的に用意したともいえる徂徠学は、本論文の主題の一つといえよう。今回は、徂徠が考究し批判対象とした朱子学の特質や、徂徠学を受けてそれを発展・克服しようとした宣長学・国学について考えることで、両者の結節点ともいうべき徂徠学の意義を明らかにしようと試みたものである。また、国学の発展を考えるなかで、徳川封建体制崩壊後の近代日本の成立期の思想状況への影響等に至るまで視野を広げることにもつながったように思われる*21。 今回の素材は従来のものとは毛色を異にするものであったが、議論の中身は有意義なものであったとの印象を受けた。今後も参加者からの提案を受けて、様々な素材と格闘していきたい。

 

 B:今回は、丸山による朱子学および徂徠学の捉え方詳細よりも、素材の論理的展開を中心に検討を加えることとなった。

 本素材は、他思想との関連を感じさせており、今後はこのつながりを意識しながら文献を読むことができるという意味でよい素材であったと考える。本素材は、丸山自身の思想形成および本論文の対象であった江戸時代の思想史の時代的前後関係でもつながりをたどっていくことができる。それは、本文でも言及されているヘーゲル、または「政治的なもの」の発見の背景にはカール・シュミットとのつながり、さらには、明治以降の日本の思想的展開、果ては本文で当時の学問状況を批判していたように、昭和前期の思想界にも展開の余地があろう。そのため、随時本論文を参照しつつ、今後の読書会に臨みたい。

 

今後の読書会について

次回は7月に開催予定です。

題材は各自の研究発表を予定しています。

*1:必ずしも本文の流れのままにまとめられているわけではないことに注意されたい。

*2:原文ママ。以下では、この語及びそれに関連する表現が数多く登場することもあり、原文の通りに用いる限り、特に括弧を付けずに表記することとし、それ以外の場合には「中国」と表記する。

*3:丸山は、ヘーゲルが指摘するシナ帝国における特性、すなわちシナは歴史的にみて対立を自己の内に孕まない直線的統一としてとどまる「持続の帝国」であるという点を強調し、それゆえ対立はその固定的な国家秩序の外に発生する、と述べる(129頁)。シナ帝国においては、王朝の変遷が繰り返されたが、多少の盛衰はあったものの、儒教は常に新王朝によって国教的な権威を保証されえた。このことは、「儒教道徳成立の前提であったシナ的な社会関係が絶えず再生産されたという事実と切り離しえない」と丸山は指摘している(130頁)。

*4:これを用意したものとして、丸山は「近世の儒教はすぐれて教学としての意義をもち、その研究も特殊なサークルを脱して独立の儒者によって多少とも公開的になされたことにある」と述べ、「かかる転回の思想的契機となったのは宋学の渡来であった」とする。

*5:この点に関して、参加者からは、近世における日本の儒教の発展は、中国におけるそれとは異なり、ヘーゲル流の「正・反・合」という形を辿ったといえるのではないか(丸山は明示的には書いていないが、このことを念頭に置いて書いていたのではないか)という指摘がなされた。

*6:293頁。

*7:徂徠学と宣長学との関係においては、「継受」という面からいえば両者は朱子学へのアンチテーゼとしての意味合いを強くもつこととなり、「転換」という面からは両者の間に一種の抜き難い隔絶がみられると評価し得るだろう。

*8:このように表記することに違和感を覚える読者もいるかもしれないが、ここでは、本文の構造を大まかに掴むために敢えてこのように表現しておく。

*9:丸山は、朱子学の特性を、道学的合理主義・リゴリズムを内包する自然主義・連続的思惟・静的=観照的傾向にあるとし、こうした諸特性を貫く性格としてオプティミズムを挙げている(152頁)。しかし、今回は議論の焦点が拡散することを防ぐため、逐一採り上げることをしなかった。

*10:143頁。

*11:同上。

*12:148頁。この点において丸山は、「朱子学における宇宙論乃至存在論は人性論の「反射」的な地位しか占めていない」とする。

*13:このオプティミズム維持し難くなると、道徳性の優位(理=誠)の下に自然が位置付けられる形での諸要素の連続が断ち切られることになる。これを捉えて丸山は、「そこにヨリ近代的な、ヘーゲルのいわゆる『分裂せる意識』が忍び寄って来る」と述べる(151頁)。

*14:丸山によると、宣長学は、国学の完成としての思想史上の地位を有しているとされる(290頁)。したがって、ここでは明確に両者を区別せずに記述している箇所がある。

*15:この点につき丸山は「とくに宣長学との関連において重要なことは、文献解釈における一切の主観的恣意の排除への志向が徂徠学及び宣長学の根柢に置かれた人格的実在に対する絶対的尊信の態度と相表裏している点に存する」と指摘する(280頁)。

*16:283頁。

*17:「道学的合理主義の分解は朱子学によって「人欲」として抑圧された人間自然性の解放となって現われた」(285頁)。

*18:297頁。このことは、宣長の学問的方法及び政治的態度に内在していたといえるだろう(この点につき、「鈴屋答問録」に記載がみられる。『増補本居宣長全集 第六』129頁参照)。

*19:注13の記載(297頁)をもとになされたものである。

*20:あくまで今回の議事録作成者の感想であり、参加者全員のそれではない。

*21:ヘーゲル流の「正・反・合」という構図が、朱子学、徂徠学、宣長学(国学)、その他西洋思想など、を組み合わせることによってあてはまるのではないか、という理解も可能かもしれない。もちろん、この構図にはあてはまらないという見解もあろう。今回の読書会の最終番にこの点に関する議論も出てきたが、それについては他日の検討課題ということになるかもしれない。

第4回読書会の題材変更

題材の変更

次回の題材は、丸山眞男「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」に変更となりました。

 

丸山眞男集〈第1巻〉一九三六−一九四〇
 

 

第3回読書会の記録

日程と題材

第3回の読書会は、2015年4月18日(土)に開催されました。出席者は4名でした。

題材は、丸山眞男『日本の思想』(岩波書店)でした。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

内容と意見交換

今回も、司会から内容の要約を発表してもらい、その後意見交換がなされました。

簡単に紹介しますと、

  • 「国体」が思想的な基軸になりえた可能性
  • 学問、教養は属性か、機能か
  • 専門分化と訳語の関係

といった点について意見交換がなされました。

 

今後の読書会について

次回は6月に開催予定です。

題材は加藤周一『日本人とは何か』(講談社学術文庫)を予定しています。

 

題材文献一覧(随時更新予定)

2015年2月

2015年3月

  • 蟻川恒正「尊厳と身分」

2015年4月

2015年6月

2015年7月(予定)

  • 各自発表

2015年8月(予定)

2015年9月(予定)

  • 丸山眞男「近世日本政治思想における「自然」と「作為」」

 

今後取り上げるかもしれない題材